「・・・姫様・・・?姫巫女様・・そろそろお起きくださいませ。礼拝堂にはもう巫女たちが集まってきております。姫様がお姿をお出しになられなくては、朝の祈りが始まりません。」
「え?」
聞き慣れない声で渚はふと目覚めた。
(・・・ここは・・・・?)
眠る前の事を思い出しながら渚は周囲を見渡していた。そこは、純白の絹の布で覆われた天蓋付きの寝台。
(ここって・・・イルの世界じゃないの?)
別世界に来たことは確かだと思えた。が、全く覚えのない場所に渚は戸惑う。
「失礼いたします、姫様。」
そっと覆っている薄布の裾を上げ、一人の中年の女性が顔をみせる。
「おはようございます、姫巫女様。」
「もうそんな時間に?」
(え?)
確かに自分が出した声だった。が、それは渚の意識とは関係なくその身体から発せられていた。そしてその声が明らかに渚の声ではなかった事に驚いていた。渚の声より少し高く、りんとした涼やかさのあるその声には気品も感じられる。
「さようでございますよ。さ、姫様、お支度を。」
やさしげな微笑みのその女性も神に仕える巫女なのだと衣装から判断できた。そして、訳が分からないまま渚はその女性と2人の若い巫女の手によって身支度されていった。
(ちょっと待って!)
寝室のあるその建物から出、手を引かれ池の中央にかかっていた石橋を渡る途中、渚はふと湖面に映る自分の姿に驚いて立ち止まった。それこには、美しい巫女装束に身を包んだ可憐な美少女という形容がぴったりの姫巫女の姿が映っていた。
(私じゃないじゃない?!)
顔の彫りの深さは到底日本人とは言えず、つぶらな瞳とほんのり紅を帯びた頬、そして形のいい唇。髪と瞳は黒色だったが、それはまるで生きたフランス人形。その黒い髪に銀製の宝冠がとても美しく映えている。
そして、朝の祈りが始まる。渚には訳の分からないことだったが、身体が、そして口が勝手に動いていた。
(というより、私がこの人の身体に入ってるって事?)
つまり憑依のようなものなのというより彼女の身体に混在しているのだ、とようやく渚は理解し始めていた。自分の身体が今どこにあるのか、あのままパソコンの前なのか、それともどこか別のところにあるのかは全く分からなかったが、ともかく心はこの少女の身体の中にいる。
(もしかして夢?)
そんなことを考えながら、渚は儀式の様子をその少女の目を通して見つめていた。
祭壇の前の月神ディーゼの彫像で、そこがディーゼ神殿であることと、やはりここがイオルーシムの世界だということは判断できた。
朝の務めを終え軽い食事を取る。そして、その後彼女は1時間ほど自室で教典に目を通していた。
−ピチュピチュピチュ−
やさしく窓から差し込んでくる日差しの温かさに、ふと眠気に誘い込まれそうだった姫巫女の意識を、小鳥の囀りが呼び覚ます。
そして、にこっと微笑むと棚の上に置いてあった紙包みを手にする建物から出て行く。
「おはよう。今日もいいお天気ね。」
紙包みの中にあったものは、小鳥の餌。それを投げ与えながら少女は小鳥たちに微笑んでいた。
−カサ・・−
枯葉が踏まれる音に少女ははっとしてその方向を見つめる。そこは僧院の中庭。滅多に人は来ない場所だった。
「え?」
(イルッ?!)
少女もそして渚も同時に叫んでいた。一人の男性が落葉樹の大木の傍に佇んで彼女をじっと見つめてた。
それは確かにイオルーシム。別れた時よりずっと大人びたイオルーシムの姿。忘れようとしても忘れることができなかった渚の愛しい人。
「どちら様でしょう?・・・・ここは男性禁止の奥神殿。男の方は例え僧侶でも入れないはずなのですが。」
(え?そ、そうなんだ?)
それで巫女しかいなかったのだ、と渚は改めて思う。
ふっと優しげに微笑み、男はそっと歩み寄って人を疑うことを知らないような彼女をじっと見つめる。
「あの・・・・?」
(イ・・ル・・・・ううん・・・雰囲気が違う。似てるけど、でも違うわ。)
すぐ間近で見上げたその男は、似てはいるが別人だと渚にはすぐわかり、気落ちする。が、その彼女とは反対に姫巫女の心が揺らいでいるのが渚に伝わってきていた。
(え?・・もしかして・・彼女・・・・?)
やさしくじっと見つめているその男の瞳も徐々に熱を帯びてきているのが渚には分かった。
(これって・・・俗に言う一目惚れ?それも両思い?)
「名は?」
男の声が心地よく、そして染みいるように心に響く。
「・・・シアラ。」
少し間をおいてからようやく答えた少女は嬉しさとそして戸惑いがあるのを渚は感じる。
「シアラ・・」
そっと頬へ手を滑らせ顔を寄せてくる男に、少女は目を閉じる。
(え?それじゃ見えないじゃない?!)
思わず叫んだ渚だが、それが何を意味してるのか当然分かる彼女は自分のことでもないのに恥ずかしさと戸惑いがこみ上げてきていた。
「きゃあっ!だ、誰か〜っ!ひ、姫巫女様がっ!」
女の声ではっとして少女、シアラの目が開き、すぐそこに写っていた男の顔が一瞬にして離れた。
「姫様っ、だ、大丈夫でございましたか?!」
慌てて大木の後ろへと姿を消した男の代わりに、シアラの目には、朝起こしに来た中年の巫女の青ざめた顔が写る。
「私・・・・」
「明日から巫女王となられる儀式が始まるというのに、なんとしたこと。でも、何事もなくてよろしゅうございました。さ、姫様、お部屋へ。」
−ポタタ・・・−
一人、姫巫女専用の祈りの部屋で祈りを捧げていたシアラの瞳から涙がこぼれ落ちた。
「私・・・・・」
恋をした喜びと巫女としての戸惑いが渚の心に染み渡るように伝わってきていた。人を想う心は渚にはよくわかっていた。そして、それがどうにもならないという思いも彼女の反芻した心の言葉によって分かった。それでも押さえきれないという想いも。
「姫巫女様・・・今なんとおっしゃいました?」
祈りをするでもなく、床に座り込んでいた彼女に気づき、走り寄ってきた中年の巫女がシアラの言葉に驚いて叫ぶ。
「ですから・・・私、巫女王にはなれません。・・・祈れないの。・・・何も考えられないのです・・あの方以外・・・・。」
「ひ、姫巫女様?!・・そ、そんな・・・巫女王となるべく明日から禊ぎの儀式が始まるのでございますよ。そのような得体も知れぬ男に心をまどわされるなど・・・・」
「でも、シャモーラ、私・・・・」
シャモーラと呼ばれたその巫女の顔色は完全に失せ、絶望で全身が震えていた。
涙目で自分を見つめているシアラの想いは本物だと彼女には分かっていた。巫女は、とくに巫女王となるべき者は純真な心でなくてはならなかった。慈愛というのなら問題はないのだが、男に心を囚われた者であっては、決してならない。
「失礼致します!」
ノックと共に、一人の巫女がシャモーラに駆け寄り、その耳に何かを告げる。
「な、なん・・ですって・・・!」
驚いてその巫女から少女に向けたシャモーラの瞳は大きく見開かれていた。
「な、何かの間違いなのでは?」
そして、再びその巫女を見つめる。
「いいえ、残念ですが、地下神殿におられます現巫女王様からのお言葉でございます。」
「何か?」
「あ・・・・・」
シアラに聞かれ、シャモーラはその一瞬答えを戸惑う。それは、口にするのも恐ろしい言葉。
「シャモーラ?」
−バタン!−
「え?」
不意に開けられた戸口から女性僧兵が走り込み、シアラを取り囲む。
「お、お待ちください!」
「待てぬ!魔王の思い人となった者をどうしてこのままにしておけるというのだ?」
はっとしてシアラを庇おうとするシャモーラを、僧兵長と思える女がきつく睨む。
「姫巫女様には大変失礼かと存じますが、これも私共の職務。しばしご辛抱くださいますよう。イキウラ、拘束服を。」
「はっ。」
「あの、これはどういう?」
僧兵の一人が拘束服を自分に着せようするのに対し、シアラはその前に僧兵長へ聞く。
「まだお話にはなってないのですか?」
沈んだ表情で頷くシャモーラに、彼女はため息を付いてから改めてシアラを見つめる。
「先ほどあなた様が中庭で会った男が問題だったのでございます。」
「・・・あの方が何か?」
「あの男は闇王なのでございます。」
「闇・・・王?」
「そうです。巫女王様からご指示がございました。闇王があなた様を奪う為、必ず再びこの神殿にやってくると。」
「私を?」
「そうです。巫女王の座の引継も延ばされるそうです。そして、我々僧兵にあなた様の身柄をお守りするようにと。」
「守る?」
「そうです。拘束服といっても、身動きがとれないというものではありません。これは気を消す印呪が施されております。あなた様には安全が確認されるまでさる塔で過ごしていただきます。」
「さる塔?・・・ま、まさか『忘れ時の塔』では?」
シャモーラの言葉に、僧兵長は、仕方なくそうだ、と目で答えた。
「そ、そんな。それではまるで罪人扱いではありませんか?」
シャモーラが叫ぶ。
「安全が確認されるまでと申し上げました。それに、我々は命じられた事を遂行するまで。全ては巫女王様のお心のまま。」
「で、では、せめて私も一緒に。」
「塔内には衣食住、何一つ不自由のないよう整っております。心配は無用です。」
あくまで同行しようとするシャモーラを制し、僧兵たちは転移の門を使い、シアラを塔へと移した。
そして、その回りに幾重もの結界を張り巡らせるとそこを後にする。次代の巫女王となれる強力な巫力を持つ巫女姫を闇王に奪われない為に。
忘れ時の塔・・・・そこが世界のどこに位置するのか、正しい位置は誰も知らなかった。ディーゼ神殿の地下にある転移の門、そこからしか誰も行ったこともなかったし、行った者も悠久の昔から数えてみても、ほんの数回あったのみで、ある意味、流刑の地と言っていいものであることは確かだった。 |